モメチンのひとりとして、大変勉強になる暴落であった
期待で上がった銘柄が決算という事実で暴落したとき、
再びバブルになるには新しい事実が必要なわけで、
1回目の暴落で逃げるべきだし、
2回目の暴落を食らうのは根拠のない希望で持ち続けた自業自得である…
ということか
6月1日追記
フジクラのチャート、デッド・キャット・バウンスの教科書みたいな動きをしていて勉強になる
モメチンのひとりとして、大変勉強になる暴落であった
期待で上がった銘柄が決算という事実で暴落したとき、
再びバブルになるには新しい事実が必要なわけで、
1回目の暴落で逃げるべきだし、
2回目の暴落を食らうのは根拠のない希望で持ち続けた自業自得である…
ということか
フジクラのチャート、デッド・キャット・バウンスの教科書みたいな動きをしていて勉強になる
11/22の土曜、『果てしなきスカーレット』を観てきました。
SNSやめたのであんまりわかっていないのだが、盛大に叩かれているようで、余計な感想を踏む前にさっさと確認しておこうと。
シンプルに私の感想を言うと「変な映画とバカにしようと思ったけど……なかなかいい映画やん」という感じ。
好きな映画になりました。
以下はあらすじと詳細な感想
父の敵への復讐に失敗した王女・スカーレットは、《死者の国》で目を覚ます。
ここは、人々が略奪と暴力に明け暮れ、力のない者や傷ついた者は〈虚無〉となり、その存在が消えてしまうという狂気の世界。敵である、父を殺して王位を奪った叔父・クローディアスもまたこの世界に居ることを知り、スカーレットは改めて復讐を強く胸に誓う。
そんな中彼女は、現代の日本からやってきた看護師・聖と出会う。
時を超えて出会った二人は、最初は衝突しながらも、《死者の国》を共に旅することに。
戦うことでしか生きられないスカーレットと、戦うことを望まない聖。
傷ついた自分の身体を治療し、敵・味方に関わらず優しく接する聖の温かい人柄に触れ、凍り付いていたスカーレットの心は、徐々に溶かされていく―。
一方でクローディアスは、《死者の国》で誰もが夢見る“見果てぬ場所”を見つけ出し、我がものにしようと民衆を扇動し、支配していた。またスカーレットが復讐を果たすために自身を探していると聞きつけ、彼女を〈虚無〉とするために容赦なく刺客を差し向ける。
スカーレットと聖もまた、次々と現れる刺客と闘いながら、クローディアスを見つけ出すために、“見果てぬ場所”を目指してゆく…。
公式サイトのあらすじ通りに進んでいくストーリー、ラストにサプライズ的なものもありますが、正直大したものではないです。
なんで『果てしなきスカーレット』が炎上しているのかといえば、この映画があまりにも伝えたいテーマが明確すぎて、メッセージムービーと化しており、もっといえば監督の説教映画になっているからだろう。
エンタメにテーマが必要か?というのはしばしば議論になる気がするが、この作品は伝えたいメッセージがあまりにもあからさますぎる。
(曖昧なままラストに持って行くのかと思えば、物語半ばでわざわざキャラクター同士に議論させ、明確化させてしまうところにはさすがに苦笑した)
そして伝えたいメッセージが複雑なものかといえば、正直ありきたりだし、それを2時間の映画にする意味あるのか?そこまでしないと伝わらないと思ってるなら観客をバカにしていないか?という感じになるのは無理からぬところだろう。
そして仮にメッセージとそれを伝えるためのストーリーが凡庸であっても、素晴らしいアニメーションがあるかといえば、個人的にはそこまでではなかった。
(石窟寺院の背景画や、時代が入り乱れた群衆など、見どころはある)
ただ、上記のような受け取られ方をされかねないというのは、細田守監督はもちろん、たくさんの関係者が関わる中で、当然想定しただろうし、「それでもやる」という覚悟があったんだろう。
結局、作品のテーマやメッセージは作品のクオリティを高めようと作り手が工夫すればするほど見過ごされたり誤読されたりする。
最近もこういう記事があったのは記憶に新しい。
私は作品をどう受け取ろうが受け手の自由だと思うけど、『果てしなきスカーレット』は作り手が現在の世界や社会の状況を踏まえて、誤読しようのない強いメッセージを送りたい、送るべきだと考え、それを伝えることには成功しているし、その心意気に私は打たれた。
そのメッセージをここに書いてもいいが、ほんとうに誤読しようがないし、それぐらいは映画館で確かめてほしい。叩くならせめてまず自分の目で観てからにしようぜ!

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を早速みてきた!
アメリカでめちゃくちゃ賛否両論らしいと聞いて、前作のファンとしてドキドキしながら観てみたら……私は好きだけど怒る人の気持ちもわかるとなった……
中年オタクにわかりやすい例えとしては、旧エヴァみたいなことをしてるといえばだいたい伝わるのではないかと思う
「アニメばかり観るのをやめて現実に向き合え」という監督のメッセージに「現実が大変だからこそ、それをひととき忘れるようなアニメを求めているわけで、余計なお世話だ」という反発が起きたのが旧エヴァだとしたら、「キモくて金のないオッサンはカリスマにはなれないし、犯罪者は因果応報を受ける」という監督のメッセージに同じような反発が起きたのがフォリ・ア・ドゥだと思えばいいのでは
エンタメとしてはカタルシスもないし不完全かもしれないけど、物語とキャラクターに真摯に向き合った結果論理的に導かれる必然の流れともいえるわけで……
私は評価します!
(ヴィランとして開き直れなかったifルートのジョーカーみたいなもんかなと思えばいい気がする)
ジョーカーは結局才能の話で、得意なことがない人はもちろん不幸だが、仮に得意なことがあってもやりたいことと一致しないと結局不幸になる話だともいえる
岩田氏:
自分の労力の割に周りの人がすごくありがたがってくれたり,喜んでくれたりすることってあるじゃないですか。要するにね,「それがその人の得意な仕事なんだ」って話で。逆に,自分的にはすごい努力して,達成感もたっぷりあるのに,周りからは「はあ?」みたいに思われることもあって。それはね,本人が好きだったとしても,実は不得意なことかもしれないんですよ。
前作はだいたいこういう話
しかし、じつはこういうタイプの「オタク」はいる。たくさんいる。いまでは数は減っただろうが、昔はもっと大勢いた。今回は「ラノベ」の話だったから話題になったが、「隠れよう」、「隠れることが当然のマナーだ」と主張するこの態度は、とても既視感がある。
ワ、ワイのことか〜!となったので、なぜオタクなのに規制派(表現規制を肯定しているわけではなく、ゾーニングとかを肯定するレベル)と呼ばれるようになったのか、自分の論理を書いておこうと思う。簡単に書けば以下のようになる。
そのうえで、なぜこう考えるようになったかというのを補足すると、
だからです。
最悪な表現ってなんぞや?といえば、私のような中年オタクにわかりやすい例としては以下のような作家の作品が思いつく。
私は上記のような作家や作風を否定する気はないし、フィクションなんだからなにをしてもいいと思ってる。
表現の自由があるのだから当たり前の話。
ただ、これらの作家や作品を実名顔出しで擁護できるか?といえば難しいというオタクがほとんどだろう。
(だからこそ東浩紀は尊敬している)
そんなオタクですら眉をひそめる、オタク仲間にもオープンにしづらいような表現を守るのは、表現の自由というお題目ではなく、「私たちは自分の意思で観たり読んだりしており、他人や子どもにはわからないようにしています」という言い訳ではないか。
それなのに広告や表紙でこちらからその存在をアピールしたら言い逃れの手段を失うわけで、それは合理的ではないだろう。
「そういう作品は18禁だから問題ない、いま問題なのは一般向け作品のことだ」という想定反論に回答しておく。
中年オタクの笑い話として、「若いオタクはFateの原作がエロゲであることを知らない」というやつがあるが、私はこれを笑えない。現代はコンテンツがあまりにも大量に存在しているので、ある作品やイラストがどのような内容や文脈を有しているかすべて把握しているオタクはいないと思うし、いわんや一般人をや、ということになる。
オタクですら難しいことを一般人にやらせるのは酷な話で、ならオタク側が譲歩するべきだろう。
「我々は何ものも拒まないだから我々から何も奪うな」の精神でいこうぜ……
ただそうなると、「一般人が愛好するようなコンテンツではそんな配慮をしていないのに、我々だけが配慮しないといけないのか」という想定反論があるので回答しておく。
海燕さんもブログで言っているが、この意見には私もめちゃくちゃ共感する。
だが、一方でぼくは考える。この現代日本の「世間」にはそれこそ願望充足的としかいいようがないようにも見えるイケメンと美少女が恋をする類の恋愛小説やら映画、ドラマ、それに「あいらぶゆー、きみだけを愛している」みたいな歌詞を歌ったラブソングがあふれているわけだが、それは気持ち悪くないのか?と。
めちゃくちゃ気持ち悪いよ!ただ、そういうメインカルチャーが押し付けてくる常識や当たり前が気に食わない、馴染めないからこそ、その受け皿としてサブカルチャーがあったはずで、オタクならそういうメインカルチャーを冷笑していた気持ちがあるだろう。だからこそ言いたいのは、
ってことです。復讐はなにも産まないって、いろんなフィクションで学んだやん!
別にこれが正しいとは思わないが、こういう考えで「規制派オタク」なんて呼ばれるようになった人がうまれたと理解していただきたい

(この気持ちもわかる、わかるけどね……)
『劇場版モノノ怪 唐傘』を公開日に観ました!
『ガッチャマンクラウズ』ファンとして、中村健治監督の新作映画ということで再放送などを履修しつつ、『モノノ怪』自体はほとんどミリしらに近い状況で観に行ったのですが……
普通おもしろい作品って、非常に繊細なバランスの上で成り立ってることが多い気がするのです。
だからこそ「このカットが……」「ここの音楽が……」「このキャラが……」みたいな、他の部分は良くても一部のせいで全体の印象まで悪くなってしまうことがままあるわけで、ほとんどの作品はそのバランス調整に心を砕いていると思うのですが、『劇場版モノノ怪』は絵とカットと音と声といった、映像作品に求められる要素をどれもこれも過剰にすることで逆にバランスさせる、それによって限界突破して名作たろうとする取り組みを行っていた印象でした。そこが個人的にめちゃくちゃ好感度が高かったです。
(自分がずーっとファンであるニンジャスレイヤーと同じ思想を感じるので、そういう作品が私好みなのだと思う)
そのうえで、ネットの感想なんかを漁ると古参ファンからの不満も多く見受けられました。確かに再放送でみているストーリーや絵柄から乖離している部分が多いので、理解はできるものの、これでストーリーまで混み入ってたら私のような新規勢は完全に置いてけぼりになったと思うので、苦渋の決断なのでは……と推察します。
すでに三部作として発表されているので、続きを楽しみにします!
🎊━━━━━━━━━━━━━🎊
— 『劇場版 モノノ怪』公式 (@anime_mononoke) 2024年7月28日
『#劇場版モノノ怪 第二章 火鼠』
2025年3月14日(金)公開決定!
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『#劇場版モノノ怪』は全三部作での制作が決定!
第二章のモノノ怪は”火鼠”。続報に乞うご期待!#モノノ怪 pic.twitter.com/jK9HaFei4O
今回の唐傘のストーリーを私がどう読み取ったかという点も書いておきます。
「大奥の女中として、まず自分が大切にしているものを捨てよと命じられ、毎日生臭い水を飲むしきたりに嫌悪を抱きながらも我慢し続け、数日後に控えた大餅曳のために新人なのにめちゃくちゃ仕事を振られつつ、ダメな同期をサポートしながらなんとか進めていく……」
私はもうこの時点で泣けてました。
「中村健治、アニメ業界つらかったんやな……」って。
アニメ業界という激務薄給な世界で、大事なものを捨てて、嫌なことも飲み込んで……そこまでしてなんでやってるんだろうな……とか思ってたんだろうなあ。
そしてしっかりもので信念を持って働くアサ、ちやほやされたいだけで怠け癖があるカメ、これは会社員あるあるでもあり、同時にどちらも中村健治のペルソナなんやろなあ……と感じました。
ラスト、田舎に帰るカメと、カメとの心のつながりを支えに、仕事に人生を捧げ出世していくことを決意するアサ……そこで
中村健治、ほんとに田舎に帰るつもりだったけど、アニメ業界でまだまだやってくれるんだな……ありがとうな!応援するよ!
大奥という因習村を今描く必然性 『劇場版モノノ怪 唐傘』中村健治監督インタビュー - KAI-YOU.net
別にこの理解が正解だというわけではなく、あくまで解釈のひとつとしてそういう見方もできると思います。
加えて、私は『ルックバック』もそういう見方ができると思ってます。
「藤野」と「京本」、このふたりも作者藤本タツキのペルソナと読み解けば、『ルックバック』の物語はマンガ家志望の藤野と、画家志望の京本が袂を分かつストーリーだともいえる。
どちらの夢も叶えられたらいいけど、どちらかを選ばないといけないことが人生には必ず現れる。藤本タツキにとっての藤野と京本、中村健治にとってのアサとカメの関係は、クリエイターたちの人生の選択を仮託したキャラだと読み解くこともできると思います。
公開タイミングが近いのは偶然でしかないとは思うが、東日本大震災や京アニ事件、コロナ禍を通じてクリエイターがなんのために創作をするのか?その自問自答ととりあえずのアンサーをどうしたのか?という比較で『劇場版モノノ怪』と『ルックバック』は語ることができるな……と思ってます。
せっかくだしメディアミックスも読んでみて、続編を待とうかな
終わらせました
ストーリー初回ノーコンティニュークリア
シレンジャーとしての腕は鈍っていないようだな!(自慢)


しかも初期状態だと合成できないのを知らなかったので大量の剣盾を持ち歩くセルフ縛りプレイしてたw
今回は敵の攻撃力を高めるかわりに回復量を上げるというバランス調整で、難易度高めかもしれない
過去作からのファンとしてはうれしい歯ごたえだと思うけどね
とりあえずストーリー進めてアイテム開放するぞ〜